同じように育てたら同じ花が咲く?

同じように育てたら同じ花が咲く?

弁当作りを通じて子どもたちを育てる取り組み「子どもが作る弁当の日」にかかわる大人たちが、自炊や子育てを取り巻く状況を見つめる連載コラム。「弁当の日」提唱者である弁当先生(竹下和男)が、兄弟姉妹の子育てについて思索した———。

「育てる」のではなく「育つ」

私は5人きょうだいの末っ子です。病弱だった父は徴兵検査で甲種合格をもらえず、大東亜戦争にも行っていません。若いころから深刻な胃潰瘍で苦しみ、両手を上げる「万歳」もできなかったといいます。毎日飲んでいたのは「センブリ」という漢方薬です。タバコは吸わず、酒をたしなんでいる父も一度も見たことがありません。

戦時中は広島県の兵器工場で働いていました。終戦の時、長女(4歳)・次女(2歳)・長男(0歳)が産まれていました。その時、父は33歳、母は26歳でした。当然、兵器工場は閉鎖され、父母の出身地である香川県に帰ってきました。母の実家の納屋を改造した部屋に住まわせてもらっているときに、次兄と私が産まれました。

8人きょうだいの3男であった父には、田畑や家屋の相続はなく、サラリーマンの給料では食べ盛りの5人の子どもは食わせられないと、一念発起して搾油(さくゆ)業を始めました。しかし、1961年に制定された農業基本法の影響を受けて菜種栽培が急速に減少し、私が大学生の時に廃業しました。

私は1971年からおよそ40年間教員生活を送りましたが、5人以上きょうだいのいる子どもを受け持ったことはありません。2人きょうだいか3人きょうだいの子どもたちが大半でした。そして、成績表を渡すたびに、多くの母親と話をしました(教育懇談に父親が来ることは極めて稀でした)。

母親からもっともよく出たのが、「同じように育てたのに」という言葉です。同じ父母から産まれた子どもたちで、同性で同じ屋根の下で暮らしても、成績・性格・特技に差があることは多いのです。この言葉が使われるときは大抵、劣る方の子の「子育てに手抜きをしたわけではない」と伝えようとしていました。

 私の母は6人きょうだいでした。子だくさんで貧しかった時代は、家族みんなの空きっ腹を満たすために必死で働いていたので、子どもの才能を最大限に伸ばしてやろうとか、能力差を縮めようとすることは少なかったのです。戦前までは、乳幼児期の病死や事故死が珍しくなかったので、親からすれば、子どもは生きているだけでうれしいという気持ちでした。だから、成績のいい子・悪い子、勤勉な子、面白い子、優しい子、弱虫の子といった能力差、個性の違いは、二の次だったのです。子どもがあるがままで認められていたともいえます。

ところが、子どもがたった2人となると、状況が変わります。2人を同じレベルに高めることを目標にし始めたのです。もちろん、2人とも同じように幸福な未来を手にしてほしいからです。

教師の私は、「同じように育てるなんて無理ですよ」と言ってきました。例えば3歳と0歳の男の子がいたとして、兄は3歳まで一人っ子で育ちます。弟は産まれたときに兄がいますから、一生一人っ子の子育てをしてもらうことはありません。産まれた時の父母の年齢、職務、経済的状況、育った家・街・地域の社会的環境、親族・友人関係などは流動的です。もし兄弟の誕生日が同じであれば、兄が4歳になるまでと、弟が1歳になるまでの1年間は、全く同じ時代(時期)です。でもその兄弟が1年間で吸収するのは、まるで異質なものです。

なら、一卵性の双子なら同じように育てることになるのかというと、それにも限界があります。双子はそれぞれ別の空間を占有しているので、別のイスに座るし、食べる卵焼きはそれぞれの胃袋に入っていきます。学年は一緒でも、クラスが違ったり学校が違ったりします。だから、きょうだいが同じスポーツ選手になっても、同じ成績(実績)を遺すのは難しいです。弟は甲子園で活躍してプロ野球選手になったのに、兄は県大会で優勝したことがない。姉は五輪で金メダルを取ったのに、妹は全国大会に出場したことがない。こういう差は、現実の社会ではよくあることです。

きょうだいの格差が大きいことを心配して必死になる親と、その親の願いに応えようとする子の葛藤を思うとき、私は他人事なのに息苦しくなってしまいます。大学受験に絡む悲しい事件の根っこには、目標と現実のズレを認めたくない気持ちがあります。「同じように育てたから、同じ結果が出てほしい」と盲信しているのです。でも、当事者でさえ気づかない、いくつもの要因が複雑に絡み合った環境の中で、子どもは「育つ」のです。「育てた」のではなく、「育った」のです。「同じように育てようとする」ことを悪いとは言いません。でも、「同じように育つ」ことは期待しないことです。

 私は2人の姉、2人の兄のおかげで、今の幸せを手にしています。幼い頃から抱き続けた「姉、兄には敵わない」という敗北感が、私を打たれ強い人間に育ててくれました。

私は姉や兄に向って、笑いながら「自分はダシがらで産まれた」と言っています。学力も文章力も絵心も身体能力もルックスも、姉兄に敵わなかったからです。私は小学4年生から習字の塾に3年間通いましたが、5級止まりでした。姉や兄はあっという間に有段者になっていました。でも、走力・跳力・鉄棒・野球・柔道で活躍する兄を見て、嫉妬するより誇らしく思っていました。おそらく優秀な姉兄のおかげで、弱虫の私は、問題生徒らからいじめられずに済んでいると思っていたからです。

母の卵子、父の精子の質が、年齢の影響を受けることを知ってからも、「もっと早くに産んでくれたら良かったのに」と考えたことはありませんでした。努力したにもかかわらず、進学校で成績が振るわなくても、「自分はこのレベル」と納得していました。でも、決して卑下していたわけではありません。持って産まれたもので生き抜くことに自負があったのです。

病弱な父親から、副鼻腔炎や十二指腸潰瘍、腎臓結石、腰痛はしっかり受け継いでいました。副鼻腔炎には、小学生の時から大学生まで悩まされました。盲腸の手術をしたのは小学1年生の時。十二指腸潰瘍は中学2年からで、ピロリ菌駆除で治った頃には、40歳を過ぎていました。激痛で有名な腎臓結石は2回経験しました。椎間板ヘルニアの手術も2回しています。こんな病弱な体であっても、父母からいただいた心体を大切に使ってきました。「5人目は要らない」と人工妊娠中絶されなかったことに感謝なのです。

「ないものねだりをしない」ということは、「あるもので幸せな生活ができる」という能力です。

父には、わが子に継がせたい家業がありませんでした。自立を助けるために、子どもたちに分け与える財産もありませんでした。

働けることを喜ぶこと、子どもと過ごす時間を楽しむこと、あるもので工夫すること、いただく命(食べ物)に感謝すること、お金がないことで卑屈にならないこと、道具・物は大切に使うこと・・・。

本当に大切なことは、日々の暮らしぶりを通して5人の子どもたちに生前贈与してくれていたと、父の享年を過ぎて、しみじみと思うのです。

新型コロナ禍で巣ごもり生活が多くなった今、一番大切なことは、置かれた状況下で楽しく生きていく姿を子どもたちに見せることです。そんな環境下でこそ、子どもは子どもらしく育つのです。

竹下和男
1949年香川県出身。小学校、中学校教員、教育行政職を経て2001年度より綾南町立滝宮小学校校長として「弁当の日」を始める。定年退職後2010年度より執筆・講演活動を行っている。著書に『“弁当の日”がやってきた』(自然食通信社)、『できる!を伸ばす弁当の日』(共同通信社・編著)などがある。
#「弁当の日」応援プロジェクト